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江戸時代末期・明治時代の開国による外交関係の樹立から大陸情勢への関係が不回避となると、当時の武将達が三韓征伐を想起したように、秀吉の朝鮮出兵もクローズ・アップされるようになり、大陸への進出は豊臣秀吉公の遺志を継ぐ行いだと考えるものも多くなった。朝鮮併合がなった際、初代総督寺内正毅は『小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ(秀吉公の朝鮮征伐に参加された小早川・加藤・小西の諸将が今生きていれば、朝鮮を日本のものとしたこの夜の月をどのような気持ちでみられるだろうか)』と歌を詠み、外務部長だった小松緑はこれに返歌して、『太閤を地下より起こし見せばやな高麗(こま)やま高くのぼる
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(太閤殿下を蘇らせ見せ申し上げたいものだ、朝鮮の山々に高く翻る日の丸を)』と歌い、共に太閤の成し得なかった朝鮮の編入が成功したことを喜んだ。
朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏のボバイ、播州(四川省)の楊応龍の二人の辺境地方の地元民族首長反乱の鎮圧とあわせて、「万暦の三大征」と呼んでいる。
これらの軍事支出と皇帝万暦帝の奢侈は明の財政を悪化させ、17世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。
惟政(いせい、ユ・ジョン、1544年 - 1610年)は李氏朝鮮(朝鮮王朝)の僧侶。尊称は「松雲大師」。居所にちなみ「四溟堂」とも号する。文禄・慶長の役で、義僧兵の総指揮官として日本軍と果敢に戦い、また加藤清正や徳川家康と会談して講和交渉を行うなど外交面でも大きな役割を果たした。
慶尚南道密陽郡の出身。13歳で仏門に入る。18歳で僧科に合格。その後、妙香山の西山大師休静の直弟子となり、三年の苦行の末、31歳のときに大悟。文禄・慶長の役のとき、朝鮮国王宣祖は僧侶たちにも抗日戦を命じ、西山大師を八道都総摂に任じた。西山大師はすでに老齢であったため、この任務を惟政に託した。惟政は朝鮮の「義僧兵」の総指揮官として日本軍と果敢に戦った。
文禄3年(1594年)、惟政は、敵将である加藤清正の陣地に三度にわたって乗り込み、講和交渉を行った。両者は腹を割って互いの主張を述べあった。清正は惟政に向かって「貴国では貴方だけが偽りがなく、他の人は信用できない」と述べた。当時、小西行長と明の遊撃将軍沈惟敬の間でも、独自の講和条件の探りあいが行われていた。小西と沈惟敬は講和を急ぐあまり、それぞれの本国に対して嘘の講和条件を伝えていた。また小西と沈惟敬の講和交渉は、朝鮮の頭越しに行われたものであった。清正−惟政ラインの講和交渉は、それ自体は成功しなかったものの、清正が秀吉に真実の情報を報告したことで、小西−沈惟敬による偽りの早期講和構想を破綻させ、最終的に朝鮮側に有利となる結果をもたらした。
戦後、朝鮮側は、被害者である
日経225
のほうから先に講和の使節を送るのは朝鮮の体面を貶めるものであると考え、正式の講和使節を朝鮮側から先に日本に送ることを躊躇した。しかし日朝両国とも本音では早期に講和を結び、戦後問題を決着したかった。そこで朝鮮側は、民間の僧侶であり、日本の武士のあいだでも知名度がある惟政を「探賊使」として日本に派遣した。
慶長10年(1605年)、惟政は対馬から京都に入り、翌年に伏見城で徳川家康と会見した。この家康−惟政会談は、日本と朝鮮の国交回復に大きな役割を果たした。また惟政は、数千人の朝鮮人捕虜の帰国も実現した。惟政と会談した家康は、彼の人となりに感服したという。惟政は漢詩を作るのも巧みで、日本滞在中、西笑承兌や玄蘇ら日本側の知識人とも漢詩の応酬を行った。家康−惟政会談は、後の12回にわたる朝鮮通信使(1607-1811)を可能にしたものとして評価できる。
日本側の惟政に対する評価の高さとは対照的に、過去の朝鮮における惟政の評価は、それほど高くはなかった。近世の日本社会では「使僧」が政界でも大きな役割を担っていた。一方李氏朝鮮では士大夫階層、すなわち儒教的文官官僚が政治を独占していた。士大夫は国難において僧侶階層が大きな功績をあげたことを認めたがらず、結果として、惟政に対する朝鮮国内の評価は不当に低く据え置かれた。
近年、日本および韓国の学界で惟政に対する再評価の機運が高まり、新たな研究が発表されるようになった。
梅北一揆(うめきたいっき)とは、文禄元年(1592年)6月に、島津氏家臣・梅北国兼が起こした一揆である。
豊臣秀吉による1回目の朝鮮半島出兵(文禄の役)の際、前線基地である肥前名護屋城へ向かう船を待つ名目で肥後国葦北郡佐敷に留まっていた梅北国兼は、文禄元年6月15日、葦北を治める肥後熊本城主加藤清正の朝鮮出征中の隙を突く形で佐敷城を占拠する。動機は、朝鮮出兵への反発とも、秀吉の支配に対する反発ともいわれる。
この一揆には田尻但馬、伊集院元巣、桂忠詮、東郷甚右衛門といった島津家臣が参加し、それぞれの手勢に農民や町人が加わった
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の人数は七百人であったとも二千人であったともいわれる。
これまで、国兼は佐敷城の留守を預かっていた安田弥右衛門らの偽りの投降に油断し、6月17日に境善左衛門によって斬殺され、一揆はわずか3日で鎮圧されたとされていた。しかし、最近になって一揆勢は佐敷城を15日にわたって占拠していたという説も浮上している。いずれにしても一揆勢は佐敷の北の八代を攻めたが失敗に終わり、加藤氏や肥後人吉城主相良氏の軍勢によって鎮圧され、国兼は死亡した。国兼の首は名護屋城に届けられて浜辺に晒され、
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は佐敷五本松に埋められたという。
この梅北一揆はもともと遅れ気味であった島津氏の文禄の役参陣をさらに遅らせてしまう結果となり、島津義弘をもってして「日本一の遅陣」と言わしめるほどの失態につながった。この遅陣は島津氏に対する豊臣政権の不信を招き、島津領内では豊臣政権の遣わした浅野長政や細川幽斎らによる徹底した検地が行われることになる。さらに島津歳久が秀吉によって一揆の黒幕とみなされ、島津義久の追討を受けて死亡したほか、一揆に家臣が参加したという理由で肥後の阿蘇惟光が斬首された。
梅北一揆によって島津氏の政治的な立場は極度に悪化したが、検地やそれに伴う国人領主層の没落は結果として島津氏の大名権力を強化する事につながり、慶長の役で軍功をあげ名誉を挽回する契機となった[1]。また事件後の処罰が苛烈だったことから、この後の豊後大友氏の改易事件などとともに、豊臣政権になじまなかった九州の諸勢力を政権体制下に組みふせる効果があったとされる。
一方、国兼は旧領において神となり、現在も鹿児島県姶良郡姶良町北山に国兼を祀る梅北神社が残っている。
蔚山倭城(????、うるさんわじょう)は、現在の大韓民国蔚山広域市に慶長の役の際、日本人が築いた日本式の城(倭城)である。別名、鳥山城、甑城。
50mほどの山に築かれた山城。
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に本丸。北側に二の丸と三の丸が配され、更にその外側には惣構が配された。蔚山自体は小山ながら、その外郭の惣構はかなりの規模をもっていた。
『浅野家文書』に収められている「蔚山之御城出来仕目録」によると、本丸・二の丸・三の丸の石垣全長が776間2尺(約1.4km)、櫓が大小合わせて12、塀が351間2尺(約632m)、惣構塀が1430間(約2.6km)に及んだとある。
慶長2年(1597年)11月中旬から、西生浦倭城からさらに北の朝鮮方の影響下内に加藤清正が縄張りをして毛利秀元・浅野幸長らにより築城が開始される。昼夜問わずの突貫工事で、40日程度で完成したと推定されている。
同年12月22日、楊鎬率いる明と朝鮮連合軍が6万近い軍勢で城を包囲した。守将の浅野幸長と救援に駆けつけた加藤清正らは籠城を余儀なくされたが、籠城より13日後、毛利秀元、黒田長政らが援軍として到着したため、明・朝鮮連合軍は撤退した。(詳しくは蔚山城の戦いを参照。)
2004年現在、城跡は「地方文化財」に指定され、公園が造成されているが、当時の遺構は石垣が若干残っている程度である。
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。肥後熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。「賤ヶ岳七本槍」の一人である。主君秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くしたことが有名。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
永禄5年(1562年)6月24日、尾張の鍛冶屋加藤五郎助(清忠)の子として、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。
天正10年(1582年)に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って同年の山崎の戦いに参加した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下、主計頭に叙任する。天正14年(1586年)からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易されると肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。このとき、肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある。肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いた。二番隊は一番隊の小西行長とは別路の先鋒であり、4月17日の釜山上陸後は小西行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は小西行長の一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定、朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。更には朝鮮の国境豆満江を越えてオランカイ(兀良哈・現在の中国東北部)へ進攻するなど数々の武功を挙げた。
しかし交渉材料に朝鮮二王子を返還してしまうなど、慶長元年(1596年)、石田三成と明との和睦をめぐって意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受けて一時は京に戻される[1]。